宗谷本線 兜沼駅ちかくの鎮魂碑はなんなのか

大学時代、同級生とふたりで北海道を鉄道で回った。いまもあるJR北海道の乗り放題きっぷをつかって稚内から函館、札幌から摩周湖まで、かなり広範囲を一週間かけてまわったことがある。ある朝、札幌から出発する稚内行きの特急宗谷の始発に乗ってひたすら北上していたとき、眺めていた車窓に目を引く物が通り過ぎていった。

参考:tyuner ALL-netさんによる車窓の撮影動画より(4:40:30あたり)

「鎮魂碑」と書かれた石碑である。周りには道路も民家もない。とくに減速しないで通り抜ける列車の窓からはその石碑に書いてある細かい文字はよめず、鎮魂というその碑が作られた目的がわかるのみだった。こんな場所で人が死んだのだろうか、あるいは常紋トンネルのような人柱か、いずれにせよとても気になるものである。しかしこの鎮魂碑について、ネット検索ではまったく情報がない。そもそも人の少ない土地であるし、最寄りの「兜沼駅」も無人で特急も止まらない駅だ。気にとめる人も多くなかったのだろう。場所はサロベツ川を渡る直前、舗装された道路も近くにはなく、まごうことなき過疎地域だ。

あとどうしても情報が見つからなくて気になっているものとして、兜沼駅をちょっと過ぎたくらいの川を渡る寸前のところに鎮魂碑が立っているのですが、北海道の記念碑をまとめているWebサイトなどを見ても情報がなく、一瞬見えたところでは個人名が書いてあったところまでは見えた、というくらいのものがありました。Twitterで言及があったところによると複数回通っても除草が行き届いているあたりから鉄道職員のものではないかという説があります。

引用:sylph01さんによるHOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パスでJR北海道の乗りつぶしをした (3) 本編day3以降 - そんなことはさておいてより

話題にしている人こそいるが、皆この碑がなにかはわからないという。私があの碑を見た大学時代からはもう10年近くが経っている。当時もインターネットで調べたがわからず、そして10年経ってもわからないままなのだ。ずっともやもやしている。少なくとも2021年5月現在のインターネット上に答えはなさそうだ。このままでは私が寿命をむかえたときに鎮魂できない。というわけでインターネットで情報を探すのは諦めて、ちゃんと正体を調べてみることにした。ネット検索で判明しない場合に頼る先というのも実はいろいろある。郷土史に紐付く石碑などは大抵その街の観光協会や教育委員会が設置主体者になっているし、小規模な自治体でうまくコンタクトが取れない場合でも、都道府県単位の大規模な図書館であればレファレンスサービスを実施している。これは図書館の司書さんなどの専門スタッフが情報を探し出してくれるサービスで、彼らは情報検索の達人であるだけでなく、他の図書館や専門機関の協力を得ながら正確な情報提供を無料で行ってくれるのだ。

最初に石碑を見かけた場所である豊富町の観光協会にメールを送ってみる。丁寧な返事はいただけたが、石碑の存在を確認していないという回答だった。場所からしてもそうだろうが、やはり観光名所というわけではないようである。つぎに豊富町の教育委員会に問い合わせのメールを送ることにした。今度はYouTubeで見つけた特急宗谷の車窓映像のリンクと石碑がちょうど移る再生位置を添付したが、しかし返事はなかった。無視されるのは残念だが返信は当然ながら義務ではないのでしかたない。次に北海道立図書館に同様の内容のメールを送ってみる。北海道はもちろん、日本人が暮らしていたころの北方領土や旧樺太についての専門資料室まで用意されている北海道最大の図書館だ。北海道にまつわるレファレンス申し込みであれば、道外からのリクエストにも応じてくれる。私が住む街の図書館にレファレンスを申し込むより、北海道については確実に詳しい情報が得られるのではないかと思い依頼することにした。通常10日程度で回答がくるとされているが、返信いただいたのは問い合わせから30日後のことだった。返信内容を見るに所蔵している多くの資料を横断し大変丁寧に調べていただいたと拝察するが、残念ながら鎮魂碑の正体はわからないという結論だった。北海道についてもっとも詳しい部類の人々にもわからないものであれば、これ以上は家の中から碑の正体を探ることはできなさそうである。

フィールドワーク

これはもうしかたない。直接行ってみることにした。稚内空港はわたしが今住んでいる関西からのアクセスが悪いので、新千歳空港まで行ってからJR北海道の「きた北海道フリーパス」というものを使用した。鎮魂碑の最寄り駅である宗谷本線 兜沼駅にできるだけ近い市街地、豊富町を拠点に決める。ペーパードライバーなのでレンタカーを借りることはせず、近くの温泉街でレンタサイクルを借りて鎮魂碑の近くへ向かうことにしたが、当然車を借りるほうが楽にアクセスできる。豊富町は稚内市と隣接していて北海道の北端までわずか50kmほどの位置。真夏でもない限りかなり寒いので自転車に乗るときは防寒に気をつけよう。

20kmほどだろうか。寒さに耐えながら自転車をこいでいると、サロベツ川を越える橋にでる。鎮魂碑は線路脇にあるが、サロベツ川沿いに近づけそうだった。碑までの舗装道路はないことを地図アプリの航空写真で確認しており、ここから先は徒歩でのアプローチを想定していた。しかし湿原らしい泥道にはクルマのタイヤ跡に水がたまっている。自転車でも近づけそうだ。

鎮魂碑に至るまでの道のうち、線路を横断しなければならない箇所があったならどうしようかと思っていたが、とくにその問題はなかった(踏切以外の線路横断は犯罪です)。道中に線路横断が必要になる地点はない。鉄道橋の下をくぐることができる。この橋を渡る直前に車窓から碑が見えたのだ。この場所で間違いない。

ついに到着した。目の前に鎮魂碑があらわれる。10年間の謎が解けた。

裏側にきっと書いてあるだろうとずっと思っていた石碑設置の所以をやっとしっかり読むことができた。いまから50年前、仲谷勝男さんという方がサロベツ川の河床調査を行っていたところ、ボートが転覆してしまいこの地で亡くなってしまったのだということがわかる。「稚内保線区工事技術掛」ということなので、当時の国鉄に所属していた人物と思われる。亡くなった当時の仲谷さんは30歳。いまの私と同じ年齢だ。

碑の文中にある橋梁というのはいまくぐったこの鉄道橋のことだろう。鉄路は尊い犠牲のもとに国土の骨格を構成している。亡くなった仲谷勝男さんの名前についてもインターネット上に記事などはとくにでてこない。おそらくこのブログ記事が彼の名前が出る初めてのものになる。当時の新聞などに事故についてや碑の設置についての記事が掲載されていたりするのだろうか。

鎮魂碑のまわりは綺麗に整備されており、いまもこの碑が大切に扱われていることがわかる。わたしも静かに手を合わせた。

追記

事故当時の状況について少し調べた: 補記