200日目のホテル暮らし
今年の4月から地元の東京を離れほとんど自分の住所地に帰ることなく日本各地を転々としている。そのうち大阪には150泊しており最も多いが(個人的に日本一居心地がよく便利な街だ)、たとえば大阪で30連泊し、次は北海道で7日間暮らしてみたりもする。北海道から沖縄まで、四国や九州や東北信越など、地元東京を除いた多くの場所に赴きその街のホテルにこもって仕事をしたり現地のおいしいものを食べ軽い観光を繰り返す。たまに現地の知人を訪ねたり、東京の友人が遊びにきたりもしたが、基本的には場所を変えつつもひとりでこのやや異常な生活を送っていた。
半年もホテル暮らしをしているとこの生活に自分の体も考え方も順応する。持ち歩いていたけどろくに使わなかったアイテムはどんどん捨てていくようにすると荷物はだんだん洗練されていき、手元に限られた私物と備え付けの家具家電しかない状態で普通に仕事ができるようになり、日常も快適に暮らせるようになる。しかしながらこの200日間は便利なところもあれば不便なところもある生活だった。部屋には電子レンジはないしキッチンもないので近所のコンビニやレストランで買って食べる必要があるし、洗濯はコインランドリーやランドリーサービスを使う(長期宿泊者は安価に使えたりする)ことになる。フロントに言えば延長コードだってカトラリーだってルーターだって大抵貸してもらえるが、それらを活用すればスーツケースは案外エンプティなままでいられた。洗濯物を増やさないように部屋の中にいるときは毎日交換してもらえるアメニティの部屋着を着るようになるし、光熱費は関係無いから朝晩2回浴槽に湯をためて動画配信サイトを眺めながら風呂に入ったりする。そのとき部屋に置いてある緑茶のティーバッグを入浴剤に使ったりする。ゴミ捨てはなにも考えずに部屋のゴミ箱に全部放り込んだら翌日からっぽにしてもらえるし毎晩完璧にベッドメイクされた清潔な布団で眠りにつける。普通の暮らしと違うところも多いが駅直結のホテルの高層階に都心のアパートの一室と同じ値段で暮らせると考えると(コロナ禍でこの価格を設定せざるを得なかったホテルの事情を思えば持続性はないだろうが)もう不動産屋で高額で不透明な初期費用を支払いアパートを借りて家具や家電をそろえて暮らすということは正直したくない。いつだって好みの街で気の向くまま移動して飽きるまでそこで暮らせる身軽さは何よりも心地よい。
とはいえこの暮らしは万人にとって最高というわけではまったくなく、正直個人的に人に勧めたいかというとかなりむずかしい。そもそもこの手の放浪生活は普通疲れる。よほど気に入ったホテルで無い限り一週間二週間で次の場所へ移動することが多かろうと思うが、それはつまり自分の住む場所とそこまでの移動手段を毎週予約する手間をかけることに他ならない。一泊の値段や駅/空港/繁華街からの遠さ、ホテルの周りの施設の充実度合い、ユーザーからの評価、食事や浴場の有無。条件に合うホテルが街に数件ならいいが大都市だと数十軒数百軒あったりする。そのなかから吟味して選ぶ作業は年に数回ならよくても毎週だと気が滅入るという人も多いだろう。いまいる部屋の荷物をまたまとめてチェックアウトして駅や空港にスーツケースをごろごろ転がしていくのだってたまにならこれから始まる非日常への突入による高揚感でわくわくするワンシーンだが、毎週だとこれは実にかったるい。不動産屋で部屋を探すよりははるかに楽なものの、一度決めた家で平穏に暮らすよりはやはり面倒だ。そしてあなたに物品のコレクション癖があれば成り立たない生活でもある。自分のクローゼットの中身をすべて持ち歩きホテルで展開する日々は現実的ではないし、ノートPCやスマホみたいなポータブルなデジタルデバイスだけで仕事ができる職種も限られる。ソフトウェアエンジニアならまだしも、それ以外の業界なら意思決定層でないとなかなか難しいのではないだろうか。いずれにせよ少なくとも非常に人を選ぶライフスタイルであろうと思う。地元を離れて知り合いすら居ない街を毎週適当に選んで目的もなく暮らすというのは、おおよそ地方から毎週新たに上京するみたいなもので友達を作るタイミングもなく基本的には一人で生きていく状態になる。一人でいるほうが好きだとか、あるいはあなたのパートナーが同じような異常者で一緒に全国を転々としてくれるとか、さもなくばあなた自身がコミュ力おばけであればさみしい思いをすることはないかもしれない。わたしは知らない人とべらべらしゃべることにそれほど抵抗がないことや東京に住む友人との飲み会に呼ばれたら喜んで出かけていたこともあり(時間と旅費がもったいないのでできるだけ複数のイベントを短期間に連続して発生するよう調整させてもらったりはするが)それほど困ることはなかったし、大阪や札幌のような大都市なら一緒にご飯を食べたり飲みにいく友人は現地に何人かできた。案外なんとかなるのだなと振り返ってみて思う。
現在は航空機の預け荷物としての制限内に収まる程度の大きなスーツケース1台に私の生活に必要なものが全て収まっている。持っているものの中で最も場所を取るのは冬服だが、衣類専用の圧縮袋に入れておけば平たくつぶれて案外かさばらない。とはいえ道北に滞在するのでもなければ通常は持ち歩く必要もないため、普通に自宅に置いておくなり白洋舍のような専門業者の提供する保管サービスを活用するようがよいと思う。一般的なストレージサービスでももちろんよいが、受け取りから取り出しまで任せられるほうが当然便利だ。アクセスしやすい都心のストレージは当然高い。乱暴な表現だが、ストレージにぶち込むような品物は本来本質的にはその人にとって不要な品物で、単に捨てるタイミングを先延ばしにしているだけの物体なのだからいつでも取り出せるようにしておかなくてもそんなに問題はないと思っている。
いずれにせよどこのホテルも閑古鳥が鳴くような様子である(閑古鳥とはカッコウの異称らしい)。あなたの趣味が旅行であり、ワクチンを打ってから二週間が経過していて、かつノートPCさえあればしばらくホテルからでも仕事はできるよ、というのであれば将来の移住先を下見するつもりで一度試してみてほしい。リモートワーク全盛のいまだからこそ会社員でも堂々と実行できるタイミングだし、合わなければすぐやめたらいいのだから。