世界で最初に原子爆弾が炸裂した場所にいってきた
1945年8月6日に広島に、三日後の8月9日に長崎に投下された原子爆弾は多くの無辜の人々を焼き尽くした。長崎に投下されたファットマンが実戦で利用された最後の核爆弾となっている。それぞれ歴史上2回目と3回目の核爆発で、両地点での投下の前、同年7月16日アメリカ国内で人類最初の核実験ことトリニティ実験が実施された。
歴史上2回目と3回目の核爆発の地である広島と長崎には何度か行ったことがあるが、1回目、つまり世界で最初の核爆発の地に私は行ったことがなかった。核の時代の始まりの場所に行ってみたかった。その実験場跡地は現在トリニティサイトいう名で呼ばれており、一年に二日間だけ、4月と10月第一土曜日の昼にのみ一般公開される。
ニューメキシコ州の南部、ホワイトサンズミサイル実験場という軍事施設の一角にグラウンド・ゼロはある。この実験場は南北に160km、東西に64kmに渡る米国最大の軍事施設で、当然ながら大変な僻地にある。ニューメキシコ州の州都アルバカーキから車でまっすぐ南下しつづける。乾燥した荒野が見渡す限りに広がるなか、ハイウェイをひたすら車は飛ばし続けること2時間半。
目的地が近づいてくるとにわかに自動車渋滞が現れる。毎年2000人ほどが公開日に合わせて見学にやってくるらしい。通常は民間人の立入がほとんどない軍事施設の一角で、さらにその周囲にも人口はほとんどない地域であり車道は細く簡単に詰まる。
到着した。トリニティという名前が付けられた経緯は今では不明らしい。
トリニティサイトの入り口には大きな鉄の筒が転がっている。ジャンボと呼ばれるこの筒は、元々はプルトニウムが爆散しないようにするための容器として使われる予定だったものだが、実際にその目的では使わることはなく爆発の威力を測る試料になったらしい。
ジャンボのすぐ脇には小さな売店が開いていた。お店などは全くない場所なのでそこそこ売れている。電気と電波はないので現金のみの取り扱いである。喉が渇いていたが米ドルを持っていなかったので我慢する。
トリニティサイトは金網で囲まれている。すでに長い年月が経っていることもあり人体に影響はないが、現在でもごくわずかに放射線量が周囲よりも高いエリアであるらしい。
ゲートを越えてからは徒歩であるく。数百メートルの距離だが、高齢者や身体障害者向けに空港やゴルフ場にあるようなカートが往復している。
トリニティ実験によって生まれた高熱に砂漠の砂が溶かされ、それが再度凝固して生まれた薄緑色のガラス質の塊がある。トリニタイトだ。たくさんのトリニタイトが盗難によって現地から失われているらしい。戦後まもなくはこのトリニタイトを使った高級ジュエリーまで登場していたというから驚きだ。この場所でしか採れない貴石だと言われればそれはたしかに希少なものである。
爆発の中心地点には溶岩でできた3.7メートルの高さの記念碑が建っている。私にとって3箇所目のグラウンド・ゼロまできた。私の巡礼の旅はここでおわる。目的地がこれ以上増えないことを祈るばかりだ。
アメリカにとっては今日まで続く栄光の歴史の一ページであり、第二次世界大戦を早期に終結させるために求められていた正義の兵器という認識なのだろう。原爆のケーシングの前でにこやかに写真を撮るファミリーを見るとそんな印象も受ける。長崎の平和祈念像の前で記念写真を撮る人々はたくさんいるが、笑いながら像と同じポーズを取る外国人観光客を見たときの気持ちを思いだした。トランプ前大統領が核実験の成功から75年目の節目に寄せたメッセージにはこうある。
This remarkable feat of engineering and scientific ingenuity was the culmination of the Manhattan Project, which helped end World War II and launch an unprecedented era of global stability, scientific innovation, and economic prosperity.
アメリカ人の歴史観が垣間見える気がして興味深い。
この場所へ来ることができてよかった。