パラグアイの日系人居住地にいってきた

ちょっとしたトラブルはあったものの、無事パラグアイに入国することができた。パラグアイという国の形や場所を知っている日本人はきっと少なかろうと思うが、この国には85年に渡る日本人移住の歴史と、各地に現在も続く大きな日系社会が存在している。ブラジルの日系社会が世界的には最大規模だが、パラグアイの日系社会は移住政策が戦後長くつづいていてまだ第一世の人々がたくさんいる。そのため他の日系社会と異なり現在でも日本語が広く使われているときいた。今回は高速道路沿いにあり公共交通によるアクセスのいいコロニアイグアスという街に行ってみることにする。

ブラジル側から入国した先はパラグアイ第二の都市シウダ・デル・エステ。この街は南米の秋葉原とも呼ばれている電気街で、わたしはとくに必要なものはないが、旅行者はここでこぞってカメラやスマホを買っていくらしい。日本で買うよりもかなり安くなるという。

街は街市場のように朝早くから始まり15時ころには店じまいをする。夕方以降は電気街的な買い物もできないし、ひとけが無くなり治安にも不安があるのでふらふら歩かないほうがよさそうだ。

さっき通った国境から3kmほどのところにバスターミナルがある。目的地のコロニアイグアスはパラグアイの首都アスンシオンと第二の都市シウダ・デル・エステを結ぶ高速道路上に位置しているので、日中頻繁に出ている高速バスに乗れば簡単に訪れることができる。この点がコロニアイグアスとほかの日系人居住地がちがう点だ。アクセスが非常にいい。

チケットはあとで確認されるのでなくさないように

シウダ・デル・エステからコロニアイグアスまでの運賃は20000グアラニー(約360円)に値上がりしている。原油高が運賃に直接影響していて、他のブログのコロニアイグアス探訪記に書いてあるような運賃では現在はたどり着くことはできない。バスの車内には運賃表も張り出されているため、ごまかされたりボラれたりすることはそうそうないだろうと思う。念のため複数の人間に料金を確認しながら切符を買った。とはいえ他の国の運賃にくらべればこれでも非常に安い。

パラグアイは南米の他の国に比べても発展の度合いは低く、道路脇はろくに舗装もされていない。赤土が露出している場所に風が吹けば土埃にまみれるし、雨が降ればぬるぬると非常に歩きづらくなる。雨期に向かうのはあまりオススメしない。

「ほんとにこんなところで降りるのか?」と運転手に驚かれる

赤土の道を南にしばらく歩く

1時間余りで今日の宿として予約した民宿小林の近くをバスが通るタイミングがやってくる。なにも目印のない高速道路の途中というだけの場所だが、そのタイミングをのがさず車掌に伝えてバスを降りよう。

民宿小林

なにもない道路端で下車したら、舗装されていない赤土の脇道を南に300mほど歩くと大きな一軒家が現れる。看板も目印もなく、加えて現在はお客さんもいないのでひっそりしているが、そこが民宿小林だ。

チャイムを鳴らしたら「よく来れましたね〜!」と迎えてくれた

民宿小林はバックパッカーたちのあいだでは「伝説の日本人宿」とも称される宿で、2019年まではパラグアイの片田舎にもかかわらずいつもたくさんの日本人であふれていたようだ。当然のことながらこの日の宿泊客は広い宿に私一人だけで、それどころかコロナ後に泊まりに来た旅行客としても私が第一号だそうである。なんともさみしいことだ。

めちゃうま

民宿小林の名物はすき焼きで、女将さんがつくってくれる割り下は日本の味そのものだ。食材はどれも地元パラグアイで採れたものだし、肥沃な土壌のもと管理された牧草で育まれ肉質のよさで知られる南米の牛肉で作るすき焼きは日本で食べるよりもあるいはおいしいかもしれない。パラグアイで作った日本米と食べるすき焼きは、ある程度長く旅を続けている人なら本当に感動できると思う。かなしいかな、私はこの名物をひとりで食べることになる。はやくお客さんがあふれてほしい。

知らないマンガが多い

わたしは日本人宿という場所に泊まるのがこれが初めてだったのだが、日本食を食べたり本棚にぎっしりならぶ日本のマンガを見たり無料でいただける麦茶を飲んでいると、ここがパラグアイだということはすっかりわすれてしまう。これはたしかに居心地がいい。沈没(ずっと同じ場所に滞在してしまうこと)する旅行者が大勢いたというのも納得する。

ねこちゃんがたくさんいる

いぬちゃんもたくさんいる

民宿小林の周りでなにができるかというと、近くに商店などもないので飼われている犬の散歩くらいしかできない。少し前は民宿小林のご主人が車で釣りなどに連れて行ってくれたそうなのだが、現在は体調を崩されていてそれらのアクティビティも休止中とのことだった。

Colonia Yguazú(コロニアイグアス)

民宿小林は厳密にはコロニアイグアスからはすこし外れた場所にあり、買い物などはコロニアイグアスの町まで車で移動する。バスで移動することもできるが、朝であれば宿のご主人が買い物ついでに一緒に車にのせて連れていってくれる。ぜひ行ってみよう。

民宿小林から市街地までの道はまっすぐで路面の状態もいい。しかし10km以上あるので歩いて気軽に移動できる距離ではない。アップダウンもあるので自転車もかなりダルいと思う。素直に車にのせてもらおう。

淡中さんはいまもイグアスにいるのだろうか

あなたを大切にするように私も大切にして!

コロニアイグアス市街地は不思議な場所で、日本国外とは思えないほどの頻度で日本語が飛び交っている。町をあるけば日本語の会話が聞こえてきたり、看板や標語の掲示も日本語でなされていたりいるのは衝撃的だ。暖かくゆったりとした町の雰囲気も相まって、日本の離島をあるいているような感覚になる。私は沖縄の南大東島を思い出した。赤土のせいだろうか。

コロニアイグアス最大のスーパー

日本のコメはこの地で作っている

白米があるのでふりかけもある

調味料もだいたいそろう

お知らせは日本語とスペイン語の併記

日系人居住地というだけあり、スーパーにならぶ食材や商品は日本でもよく見かけるものがたくさん並んでいる。日本で生まれ育ってこの地に移住した一世の人々もまだたくさんいる地域なので、ヨーロッパやアメリカにあるアジア食材を扱うお店などよりも品揃えははるかに良い。彼らは日本食に対して目も舌も肥えているのだ。

大きな鳥居

開拓の歴史だろうか

眞子さまが5年前にきていた

卒業制作かな

日本のような、そうでないような感覚にずっと包まれる。台湾に行ったときの気持ちを思い出す。パラレルワールドみたいだ。ここはどこだろう。

拓恩寺

コロニアイグアスは非常に宗教的多様性のある地域で、最初の移住時に持ち込まれた神道やパラグアイで一般的なキリスト教だけでなく、移民達の持ち込む仏教の各宗派や天理教、創価やPL教団など、人口1万数千人の町としては異常なほど多彩になっている。今回は民宿小林の女将さんに紹介していただき、曹洞宗のお寺を見学させていただくことにした。

修繕中だった

日本の檀家さんやイグアスの日系人のご家庭からの寄付によって築造されたというお寺の中はいまも非常にきれいで、建物の中は日本で見るお寺のお堂そのものだった。あらゆるアイテムは日本から輸送してきたとのことで、相当重量もあるであろう梵鐘まで吊されている。いまからでもすぐに使えそうに見えるが、残念ながら先代のお坊さんが亡くなられてからは現在まで経を上げられる人はおらず、お寺としての機能は停止している。お坊さんのリクルーティングはかなり難しいらしい。コロニアイグアスは素晴らしいところだとは思うが、やはり地球の裏側に使命感だけで来ていただくというのだからそう簡単には見つからないのだろう。そりゃそうだよなと思う。

一度バラバラにして日本から運んだらしい。品目はなんだろう

お地蔵さんの後ろにはパイナップルが植えられている

メロンもなっている

お寺の周りにはちいさな畑があり、いろいろな果物が植わっている。管理している人いわく、土がいいので適当にやってもよく育つのだとのことだった。

ペンション園田と移住資料館

園田さんというこのコロニアイグアスのボスみたいな人がいる。彼はこの少年期にこのコロニアイグアスに渡り、当時原生林の広がるこの地を拓いていったというすごい人だ。彼の運営するペンション園田にも泊まらせてもらった。

巨大な秋田犬が2匹いる。とても人なつっこい

この町が宗教的に多様性があるというのも彼から聞いた話だった。パラグアイ北西部に巨大な新興宗教の信者が多数集まる都市が生まれているという話を伺い、なんとなく南米の宗教都市というとガイアナの人民寺院を思い出してしまい怖いですね、と話したところ、そんなことよく知ってるねと褒められる。いまのところそういったコンフリクトは起こっておらずパラグアイは今も昔も平和だとのことだった。移住される方は参考にしてほしい。

移住資料館。園田さんが館長をしている

多くは今も動く状態らしい

原生林広がる未開の地から今日に至るまでの記録

日本に現存しない非常に貴重な精米機

数時間にわたりコロニアイグアスの歴史について講義を受けた。私一人のために申し訳ないなと思ったが、この町に来る旅人は大抵この長時間の講義を受けているらしい。せっかくなのでたくさん質問して学びコロニアイグアスマスターになった。南米に移住した日系一世の人に話を聞ける機会などほとんどない。地球最大の日系人コミュニティが存在するブラジルではかなり前に移住政策が終了しているため多くの一世は鬼籍に入っているからだ。

南米への移住というのは、日本での生活、親類縁者に友人、持ち運びできない所有物など、全てを捨てて退路を断たれ相当な覚悟の元で始めたものだと思っていたのだが、園田さん曰く、別に全てを捨てるということではなく、戻りたければ戻れるし、景気がよく安定した日本へ後に戻った人もいたらしい。移住を斡旋する政府組織も現地にあるし、失敗したら別の移住地もあるし、数週間かかるが定期船に乗れば日本まで一本で帰れるのだからそれほど重い決断ではなかったようだ。労働力の不足にあえぐ当時の南米への移住は、戦後の引き揚げ事業によって労働人口が過剰となった日本にとって安定した生活を確保するための案外気楽に始められるライフスタイルの一つだったらしい。それが私には一番興味深い事実だった。

食事

肉ばかりの南米の食事だが、コロニアイグアスでは日本食が広く食べられている。もちろんそれ以外のレストランもたくさんあるので滞在中に食事には困らないし、パラグアイの物価は諸外国よりも安いので好きなだけ飲み食いできる。ビール一缶40円、たばこ一箱30円だ。

パラグアイ産米のおにぎり

納豆と梅干しとらっきょう

野菜炒めラーメン

パラグアイの温暖な気候に合わせて育成できる日本米の品種もあり、それらの食味も非常によい。この地域の基幹作物は大豆で、この居住区内で豆腐や納豆、味噌や醤油などを生産している。日本の味には事欠かない。

肉の付け合わせにキャッサバ(ここではマンディオカと呼ぶ)

もちろんパラグアイらしい食事もあり、夕方になると牛串焼き(アサード)の露店があらわれ美味しそうな匂いで客を集めている。あまりにも美味しいので毎日のように通ってしまった。

パエリアみたいだけどお米じゃなくてパスタと食べる

お寺でとれたメロンをごちそうになった

みんな毎日どこかで飲み会をしていて、彼らと仲良くなると誘ってもらえる。最近移住してきた若い日本人なんかもいて本当に楽しい毎日だった。

アスンシオンに向かう

居心地が良すぎてずっとだらだらと過ごしてしまうコロニアイグアス。当初の滞在は3泊の予定だったが、結局延泊を繰り返し一週間以上経ってしまった。この地に沈没したいという気持ちにフタをして、隣国ボリビアに向かうことにする。

イグアス病院

検査結果:ネガティボ

ボリビアはいまも全ての入国者にRT-PCR検査による陰性証明をもとめており、抗原検査の結果は受け付けていない。ワクチン接種者なら隔離も検査も不要な国が増えているが、ボリビアもパラグアイも今は結構厳重な態勢だ。コロニアイグアスでは町の病院にて430000グアラニー(約7800円)でRT-PCR検査のリザルトが受け取れる。陰性だったのでボリビアへの入国が可能になった。

アスンシオン行き高速バスに乗る。さっきまでいたコロニアイグアスからどんどん距離が離れていくさみしさを感じる。リピーターも多いらしい。いまはその気持ちがよくわかる。日本を出てしばらく経つとどうやっても日本が恋しくなる。地球の裏側にいるという地理的条件もあってノスタルジアは簡単に誘起される。そういう望郷の念が強くなったらパラグアイにくるとよさそうだ。日本の田舎のような町の雰囲気だったり日本語だったり日本食だったり、落ち着く要素ばかりの町だった。旅することに疲れたらまた行きたい。