レバノンにいってきた
中東の国々はいくらか行ったことがあるが、比較的治安のよいイスラエルやヨルダン、パレスチナあたりをまわったくらいだ。ちょうど地中海に浮かぶ島キプロスに滞在しており、対岸のレバノンまで50分ほどのフライトでたどり着けることがわかったので首都ベイルートまでのチケットを買ってみた。日本の国内線くらいの距離なのであっというまに到着する。
レバノンは隣国イスラエルと非常に関係が悪く、過去にイスラエルに入国している人は原則として入国拒否の対象となる。しかし入国の記録となる証跡としてパスポートスタンプのみを基準にしているため、イスラエル入国時にスタンプが押されない運用となっている現在では死文に近い。私もイスラエルには行ったことがあるが、レバノンの入国審査ではパスポートの各ページを丹念にチェックされたものの結局のところ普通に入国できた。ただ、パスポートの裏表紙に貼られるイスラエル入国管理用の黄色いステッカーはその場で入国審査官の手によってすべて剥がされた。裏表紙を爪でゴリゴリと削られることに抵抗があれば、事前にすべて剥がしておくといいと思う。シールを剥がしても接着剤部分はベタベタと残り続ける。ちなみにこれはニベアなどのハンドクリームを乗せてティッシュで擦ればきれいに落ちる。
入国したあとの到着ロビーは例に漏れずタクシーの客引きであふれている。「オフィシャルタクシーだよ!」と謎の証明書を見せてきたり、「ウーバーと同じ金額だよ!」と声を掛けてきたりする。個人的なオススメはViatorで空港送迎を注文しておくことだ。ベイルート空港から市街地までは10kmほどの距離があり、空港から出ている公共交通も無いため基本的には交渉して乗る地元のタクシーを使うしかない。この手の交渉は普通にダルいし私は嫌いなので事前に予約しておくことができれば心配ごとは一つ減る。Viatorに登録されている業者は複数あり、故に若干の価格競争があるのか20ドルくらいで横並びになっている。極端に安いところがないぶんどこも大してかわらないので適当に選ぼう。ちなみに到着ロビーで適当にタクシーを捕まえた場合、ドライバーは35ドルを提示してきた。交渉して半額以下まで値切れる自信があればそれでもよい。
空港から出るタクシーの支払いは基本的に米ドルだ。少額紙幣を多めに持っていると便利に使える。レバノンの通貨であるレバノンポンドのようなマイナーな現金を他の国で入手することはほとんど不可能であるため、初めて来る旅行者であれば特に米ドルは頼りになる。
到着した宿はAirBnBで予約したアパートで、街の中心部に位置している便利な立地だった。繁華街も近く、そもそもそれほど広くないベイルートの街を歩き回るにはちょうどいいところを見つけられたと満足している。しかしチェックインしてすぐにこの宿が、というよりはこの街がどういう不便を抱えているのか気づくことになる。
なんと2時間おきに建物全体が停電するのだ。しかも夜間は朝九時まで停電する。電気の供給がなければ当然電灯もつかないし冷房も使えない。シャワーも水しか出ないしエレベーターも止まってしまう。およそ現代的な生活を送ることができない状態にある。大きな商業施設や病院、空港といった場所では今のところ停電は回避されているものの、例えば信号機は大通り以外ではずっと消灯している。一般家庭において中東の強い日差しのもとで空調や冷蔵庫が使えないのはかなり厳しい。現代人はひ弱なのだ。
なぜこのような状況にあるのかというと、レバノン自体が深刻な経済危機のさなかにあり、燃料の輸入が満足におこなえず全土で著しいエネルギー不足に陥っているからだ。中東に位置するレバノンだが、この国自体は産油国ではなく、そこらの地面を掘っても何も出てこない。同じように小さな中東の国カタールとはこの点で大きく違う。燃料がなく稼働できない発電所に代わり、各家庭の発電設備でまかなうほかないのだ。とはいえそれらの小規模な発電施設も当然燃料が必要となるし、その燃料は外国から輸入するしかない。それがこの過酷な停電スケジュールを生み出している。
街歩き
冷房のない部屋は窓ガラスから入り込む中東の強烈な日光にじりじりと焼かれハビタブルゾーンの外側へ追いやられる。もちろんサウナ状態の部屋のなかにとどまる必要はない。せっかくの異国だ、ベイルートの街を歩いてみよう。
電気が無くても海沿いの街は美しい。コルニーシュとよばれる海岸通りは朝から晩まで人がいる。このエリアは地元の人が散歩していたり、ジョギングしていたり、あるいは小さな出店があったりする。人が多いエリアなので物乞いもいるのだが、アラブの国での喜捨は当然のこととはいえその人数はこれまでの国の中ではなかなか多い。当然全員に施しを与えるなんてストックオプションでぼろ儲けしてなきゃ不可能だ。レバノンはこれまで国の収入の多くを観光によってまかなっていたが、2020年のベイルートの大爆発やコロナ禍による観光客の減少で国民はかなり困窮しているらしい。結果としてこの国の失業率はとても高く、周辺の国からの難民は非常に安い賃金で働かされているのだという。
ベイルート大爆発は港湾部に大きなクレーターを残す規模のすさまじい事故だったが、現在はただの空き地になっており上空から見ても事故の痕跡はわからない程度までは回復している。損傷を受けた建築物はそこここに残っているが、豊かな国ほどではないにせよ都市のレジリエンスは確保されているようにみえる。
コロナ禍の前までは中東随一の観光立国として多くの客を集めていただけのことはある。街の中心地に並ぶ建物は非常に美しい。ベイルートはかつて中東のパリと呼ばれていた。今も呼ばれているかもしれないが、そんな話をする人たちももはやこの街には長いこと来ていないだろう。観光客で賑わうベイルートの街が戻ってきてほしい。
宗教が混在する国なので教会もあれば巨大なモスクもある。入ってみたかったが扉は閉ざされていた。レバノンでは国教(というほど強力な支援をしているわけではないようだが)として18の宗教が指定されている。4つのキリスト教、12のイスラム教、一つのユダヤ教、一つのドゥルーズ(レバノンを中心に存在する共同体で、イスラムとは異なるものとされている)。フランスの植民地支配を受けていたこともあり、アラブの国としては非常にキリスト教徒が多い。憲法で定められた信仰の自由もこの国の平和と文化の多様性に寄与しているようだ。
両替について
陽気な気候と良好な治安で忘れてしまいそうになるが、この国の経済は完全に崩壊している。つい最近にはデフォルトにも陥っているし、通貨のレバノンポンドの価値は猛烈に低下している。とりわけ公定レートと闇レートとの乖離はこれまで回ってきた国々のなかでも最もひどい状態だった。
公定レートというのはレバノン政府が定めた外貨との固定相場のことで、レバノンポンドの場合は1USD≒1500LBPに固定されている。闇レートというのは実際に市井の両替商らが適用するレートで、こちらの場合は現在1USD≒31500LBP程度となる。実に21倍もの差があるのだ。
スーパーでもらえるレシートには公定レートで換算した米ドル表記もあるが、もちろんまったく意味がない。1Lのオレンジジュース一つで36ドル(4800円)もするわけがない。外貨を両替して手に入れたレバノンポンドで支払えば150円ですむ。
というわけで公定レートを適用するという金融機関や政府機関と実勢レートを使う一般のお店を混同すると大きく損をする。たとえば街中のATMでレバノンポンドを引き出せば公定レートなので21分の1まで毀損された価額の紙幣を引き出すことになるし、そのレートで手数料が定められているような手続きであれば格安で済む。わかりやすい例は在レバノン日本国大使館でのパスポート更新だ。日本で10年パスポートを発行すると手数料として16000円かかる。どの国の大使館で申し込んでも概ねその国の通貨で同じくらいの金額を支払わなければならないが、レバノンであれば公定レートで計算された手数料しかかからない。2022年現在のその金額は222000レバノンポンド、公定レートなら日本円で19000円、実勢レートであれば900円だ。ものすごく安い。おそらくこれが世界最安値である。ただレバノンにパスポートを発行する機材がないらしく、近隣諸国で発行し郵送する都合上申請から受け取りまで一ヶ月程度かかる。二時間に一回停電するアパートで一ヶ月暮らすことに抵抗がなければこんな選択肢もあるのだ。
レバノンのお札はカラフルでデザインもかわいい。アラビア数字(まぎらわしい表現だが0 1 2…といった数字)の裏にインド数字(١ ٢ ٣……など)が描かれている。高額紙幣のサイズは妙に縦に長いため普通の財布からははみ出してしまう。端っこが財布からはみ出た紙幣は傷みやすいので普通に畳んでバッグに忍ばせた方がいいかもしれない。それくらいデカい。
ところでレバノンには米ドルを扱うATMもある。旅行者はこちらをつかって米ドルを引き出し、それを両替してレバノンポンドを確保するのがオススメだ。
食べ物
レバノンは世界的に知られる美食の街で、レバノン料理もまた世界中で愛されている。わたしももちろん大好きだ。レバノン出身の人がいたらレバノン料理を褒めておけば友達になれる。まぁこれはレバノンに限らずあらゆる国で有効な知見でもある。初めて行った国では「料理が美味しいことで有名だから来た」「(男性|女性)が(きれい|かっこいい)からきた」あたりは大抵の国で言っておけば照れつつ喜んでもらえる。
そしてレバノンは宗教的にはそれほど厳格な国ではないため飲酒も当たり前のように可能だ。街のスーパーに行けばビールやワインが並んでいる。旧宗主国であるフランスの影響を受けていることもあり、レバノンワインはその品質において高い支持を受けている。らしい。私はワインの魅力についてよくわからないが、そう言われていることは知っているし、たしかにスーパーにはたくさんのワインが並んでいた。
レバノンビールの代表格はアルマザというブランドで、アラビア語でダイアモンドの意らしい。暑い国で飲む冷えたビールは言うまでもなく格別で、舌の肥えたレバノン人たちから愛されているだけありなかなかおいしい。レバノンにきたらアルマザを飲もう。
街を歩いていると大きな凸型の鉄板の上でピタパンを焼いている。そこに塗られている謎のソースも気になるし、地元の人で賑わっていたのでお店に入ってみた。
謎のソースはザアタルというもので、オリーブオイルと数種のスパイスを混ぜたものだった。味はそんなにないし、辛くもない。風味付けくらいの調味料みたいだ。焼いたアラブ風の薄いパンにザアタルを塗り、そこにキュウリやパプリカ、オリーブなどの野菜を載せて丸く巻く。
その後いくつかのお店で同じメニューを試してみたが、やはりどのお店でも「サンドイッチ」を買うと筒状に巻かれた薄いパンが渡される。街の至るところで売られていて、とても安く、そしてものすごくうまい。この飽食の時代においてサンドイッチというワードではもはや心躍ることはないが、レバノンで食べるこのサンドイッチは本当に美味しかった。毎日食べたい。
観光
ベイルートは観光という面では規模の小さい街なので徒歩でも十分にまわれる。日中の暑い時間帯であればUberなどで移動してもいい。その際は支払い方法の設定を必ず現金にしておこう。クレジットカードだと公定レートでの請求になり非常に高くなる。レバノンポンドでの支払いなら数百円で街のどこにでも、もちろん空港にだって行ける。
ベイルート国立博物館はレバノン最大の博物館で、同国の考古学的に貴重な優れた展示品が数多く並んでいる。美しい建築物としてベイルートの街を代表する施設となっている。戦火を逃れるために外壁をコンクリートで固めて収蔵物を保護したりという過去があり、終戦後も修復のために長く閉ざされていたものの、現在では中東随一の展示内容としてアラブ世界では知られた存在のようだ。
この手の美術品に興味が無くてもこの博物館はたぶん結構面白い。出土したセラミックの石棺がずらりと並んでいる薄暗い部屋は不気味な静謐さがある。一番の目玉は地下の小部屋に安置されている3体のミイラだ。壁のボタンを押すとガラス戸が開き、中に入れる。ぜひ見に行ってみてほしい。
海岸のコルニーシュにそって西へ歩いていくと、ピジョンズ・ロックと呼ばれる岩がある。海に囲まれた国土で育つ日本人にとってはたいしたことのない景色にも見えるが、これがどうやらベイルートでは最も人気のある観光地で、この岩を眺められるレストランや展望台が近くにある。
海岸の景勝地なら沖縄の万座毛とか、宮崎の青島とか、なんとか岩とか、日本国内にそんなものは山ほどあるのでとくに感情は湧かないかもしれない。私は、まぁそんなに湧かなかったかな。
ベイルートの中心地は経済が崩壊している街とは思えないほど綺麗な街並みが広がる一方、工事途中で放棄されてしまったらしき枠組みだけの高層ビルや地上げに耐えているような古い家屋もちらほらあったりもする。こういう美醜の入り交じる街のようすもパリに似ているのかもしれない。
放置されたホテルの廃墟。内戦による建物へのダメージが修繕されないままうち捨てられてしまったようだ。現在は高いフェンスで囲われて中に入れないようになっている。こっそり入ったという海外の記事も見かけたが、トラブルを避けるためにも海外でそういう行為はやめよう。
次の国へ
レバノンの次にどこへ行こうか考えたが、ヨーロッパは全部まわってきたし、夏の中東は暑すぎるということで冬まっただ中の南アフリカに行くことにした。南半球の最南の近くに位置している南アフリカ共和国であれば当然涼しい気候であろう。夏が暑いから涼しい南半球まで行くなんて贅沢な避暑だ。これまで行ったことのない国だし、ちょうど良い。ベイルートは近隣の国しか航空路線がないので中東最大の航空会社であるカタール航空でドーハ乗り換えの航空券を買った。
空港到着時に市街地へ向かうときは何も知らない旅行客だったので20ドル払ったが、Uberを使い現地通貨で支払えるようになった今、私は5ドルで10km離れた空港まで向かうことができる。泊まっていた宿の管理人さんにも「空港までそんな安くいけるのか」と言われるほど安価に乗れた。テクノロジー様々だ。
ベイルート空港は思いのほか広い。大量のチェックインカウンターがずらりと並んでいるし、空港ラウンジだっていくつもある。一番広いフラッグキャリアのレバノン航空ラウンジ小学校の体育館くらいある贅沢な空間で、食事やアルコール飲料はもちろん、なぜか博物館のように土器がいくつも展示されていた。
その広い空間を横切るようにしてバーカウンターでビールをもらうという行為を繰り返していたら、3回目くらいからバーカウンターに歩いて近づくだけで先回りしてビールの栓を抜き「どうぞ!」とばかりに笑顔でスタッフから瓶を渡されるようになる。ありがたいような気恥ずかしいような気分だ。
搭乗時刻から一時間ほど遅れてやってきた飛行機に乗り込む。ベイルートからカタールに向かう人はさほど多くないのか、機内は空いていた。エコノミークラスなのでアームレストを収納させて横になりたかったが、この手の完全に固定されている状態ではそれもかなわない。同じ中東エリアの移動なので短い時間ではあるが、一度エコノミークラスで横になれるともうじっと座っている状態は耐えがたいのだ。人間とは、炭素生命体とは実にわがままな生き物である。