北極にいってきた その3

その2はこちら

車輪は人類最古、かつ最重要な発明とされている。それが二つも付いたゴージャスな移動手段を手に入れた私は北極の大地を自由に駆けることができるようになった。ロングイェールビーンの街は概ね平坦だし、街中では道路は舗装されているので快適に移動できる。

Xへのポストでは世界最北の日本人かも、とはしゃいでいるが、これはおそらく間違っている。このロングイェールビーンよりもさらに北西に約100kmいったところにニーオルスン基地という国立極地研究所の研究拠点があり、専任の技術スタッフが長期間滞在しているらしい。私の滞在中ニーオルスンに実際だれか居たかどうかはわからないが、しかしロングイェールビーンで満足しているようではまだまだであろう。上には上(地図表現)がいるのだ。

このニーオルスン基地、その場所も特殊だが施設としてもやはりかなり特殊な場所で、もちろん圏外だが基地から半径20km以内での電波を発信する機器の利用が制限されており、機器自体のBluetoothやWi-Fiの使用も禁止されている。インターネットは使えるが、有線接続でしかつなげられない。人間が居住する場所としては最も電波による干渉の少ない場所の一つだろう。ここ以外ではもう北センチネル島くらいしかない気もする。また子供の来訪も禁止されている。とはいえ閉鎖都市というわけでもなく、写真家や記者、あるいはただの好事家のための普通のホテルも用意されているので、いつか遊びに行ってみようかなと思った。

街のようす

ロングイェールビーンの街をうろついてみる。灰色の曇り空が広がっているが、気温はそれほど寒くない。東京の晩秋くらいの感覚だろうか。風は少しだけ冷たい。

海に面したロングイェールビーンの街

地名の由来になったロングイェールさんの碑

ホテルの前にはトナカイも現れる

スヴァールバル博物館

三角形にひろがる街を二分するようにやや大きな川が流れている。絶え間ない濁流は雪解け水で、これのおかげで移動の効率は少し落ちる。徒歩であれ車であれ、川に数カ所かかる橋を通らないと川を越えられない。

街の至る所に炭鉱の残骸がある。元々炭鉱業で始まった街の歴史を物語る遺構で、これらを回るツアーも開かれている。特に制限はないので適当に路端に近づいてなかを覗いてみたりすることも可能だ。

高台にある墓地

この地では死ぬことが禁止されていると言われている。実際には死体の埋葬が禁止されているという当地の事情が曲解されているだけで、別に死んだところで誰かが罰を受けるわけではない。永久凍土が広がるこの地では、埋めたところで死体が地中で分解されず、そのまま残り続けてしまうのだ。通常は当地でカバーできないような重篤な病やケガを受けた場合はノルウェー本土に送られて治療を受けることになる。しかし、まれにホッキョクグマに襲われて人間が死んだり、あるいは自殺したり、交通事故にあったりはしてしまう。そうなった場合は基本的に故人のふるさとに送られ荼毘に付されることになるようだ。なお、火葬したあとの骨壺であればこの地での埋葬も許可されている。

スヴァールバル世界種子貯蔵庫

植物の種を長期冷凍保存するための保管庫がこの地に埋設されている。地盤が固く安全で、国際条約により非武装地帯であり、そして冷却装置が故障したとしても永久凍土により氷点下を保ち続けられる場所としてこの場所が選ばれた。世界中から集められた種子には日本からのものも含まれていて、岡山大学の送ったオオムギが知られている。ところでスヴァールバルでは大麻の所有も使用も違法だが、この保管庫にはスペインから提供された21500個の大麻の種子が保管されている。

ちなみに施設の中に入ることはできない。保存されている種子は深刻な気候変動や核戦争、植物の病気などによる絶滅に対する最後の砦として厳重に保管されているためだ。新しい種子が搬入されるとき以外、施設は無人のまま24時間、市街地のオフィスから遠隔で監視されている。種子たちは電子鍵で施錠されている5つのドアを通った先で、種類ごとに箱詰めされてひんやりと眠っている。この種子が必要ない未来であり続けることを祈ろう。

思えば遠くへ来たもんだ

この街で一番の観光名所がこの標識だ。同じ標識はいろんな場所にあるが、これが一番風情のある場所に立っているので、日中はひっきりなしに記念写真をとる観光客が現れる。この標識がデザインされたマグカップやお菓子、Tシャツは土産物屋に山とあふれ、定番商品としてどこにでも並んでいる。旅人の間ではオーストラリアの「カンガルー注意」サインとか、ラスベガスのアレと同じくらいの知名度があるのではなかろうか。実物を見るとこれは結構感動する。

日本の国際運転免許でスノーモービルを運転できる

本のリサイクルコーナーにはノルウェー語の本が多く並んでいた

この街には外国人が多い。つまりノルウェー人以外がたくさん居るという意味だが、ビザも就労条件も不要でいくらでも滞在できるという特殊な場所であるため、東南アジアの人々が出稼ぎで多く滞在しているようだ。日本人の居住者も数名いる。ちなみに最も多いのはタイ人らしい。

ホッキョクグマとの暮らし

前述の通りこの街ではホッキョクグマ遭遇の警告標識がそこかしこにたっており、どのホテルでも街の外に出てはいけないと厳命される。人間よりもクマの数のほうが多いという特殊な地域柄もあり、人間がクマに襲われる事件は近年でも発生している。人より強い生き物が人よりも多くいるという島で暮らすためにも武装は欠かせない。

街には銃火器が売られている。ロングイェールビーンでは住民の銃の所持に対してヨーロッパ本土のような免許は不要で、住民は無料で射撃のレッスンを受けることもできる。店舗に持ち込むことは禁止されているが、逆に街の外に出る場合は常にこれらの銃火器による武装が求められる。

Photo by Hans-Jurgen Mager

普通に観光している限りにおいて旅行客に被害が及ぶことはほとんど無く、熊も街に近づくことはまずないと言われているものの、統計的には10年に一度くらいのペースで被害が発生しているらしい。

クマ注意の看板。観光案内板を兼ねている

「手を洗わない男子はホッキョクグマのエサにします」

この街ではできるだけ良い子でいよう。誰だってクマの食べ跡になった肉体のかけらとして帰国したくはない。

食事

観光地プライスを受け入れざるを得ないものの、この街のレストランはなかなかレベルが高い。いかにも観光客が好きそうな郷土料理っぽいメニューがそろっている。サーモンとかトナカイとか、クジラとかアザラシとか地ビールとか、そんなものがたくさん並ぶ。とはいえ1プレート3000円くらいはするので、毎食ここで空腹をやっつける日々を気兼ねなく送るのは私にはまだ難しい。

スヴァールバル醸造所のビール

クジラ肉のなんか

おいしい魚のなんか

おいしい肉のなんか

ラーメン

街には一軒だけ日本食料理屋もある。そこが世界最北の日本料理店だ。まぁ、とても日本的な日本食が食べられるというわけではないが、アフリカで食べる日本食くらいのものは北極でも食べることができる。ちなみに写真にうつるラーメン一杯が2200円だった。担々麺ラヴァーとして世界最北の担々麺も食べてみたかったが、この街でそれを見かけることはなかった。

キャッシュレス社会

ノルウェーの領土なのでノルウェークローネ(NOK)が法定通貨となっている。……が、街では空港からのバスであれカフェであれクレジットカード決済以外ほとんど使われることはない。現金決済が必ずしも拒否されるというわけではないが、カードを使ってくれという札や張り紙が貼ってある店舗が多かった。現金の流通が限られていることもあり、観光地にありがちな両替商もほとんど存在しない。

「カード決済でおねがい!」

ユーロの支払いを受け付けている店舗はたまに見かけたが、数は相当少ないしNOKで支払うより1割くらい損する値付けだったのでやはり外貨を持ち込んで観光するのは避けた方が良いと思う。

メジャーなカードはすべてつかえる

グリーンランドでJCBカードを使ったとき、「JCBカードによる決済の最北記録ではないか」と過去の記事で書いたが、今回はさらに北での決済ができた。最北記録の更新である。二宮くんも喜んでくれるだろう。ニーオルスン基地を訪れる機会があれば、もしかしたらそこでさらに更新できるかもしれない。

グッバイ北極

北極を発つときがやってくる。出発のフライトは深夜だ。といっても街の風景は太陽の光が降り注ぐ昼間の光景となにも変わることはない。夜のこないこの街では体内時計は狂いっぱなしで、本来こんな早朝に宿を発つなんて相当げんなりするはずなのだが、眠いとかだるいとかそういう気持ちはみじんも芽生えない。真っ昼間同然の太陽の光を浴びた体が、その体内時計を半ば無理矢理調整しているような感覚がある。

空港の売店は街のスーパーと同じ会社が経営している

午前2時。空は青い。夏の間は4ヶ月にわたり夜の闇が訪れない。逆に冬は11月から2月の終わりまでの4ヶ月間、スヴァールバルは暗闇に支配される。空を見て明るければ目を覚まし、日が暮れたら眠りにつくという生活をこの街で送ることはできない。夏は夏で沈まない太陽を相手に気が狂いそうになるし、冬の長い闇は街の住民にひどく沈痛な思いを抱かせるようで、この街の自殺率は日本の4倍にも及ぶという。

というわけで、今度こそ北極と南極の両方に行った人間になることができた。安くはないが北極点へ向かうツアーもあり、毎年数百人の旅行客が参加しているらしい。といっても極の位置を指すピンが立っているだけなので、エンタメ性はさすがに少し低そうだ。老後、お金を使い切るフェーズに軟着陸する日がやってきたら、そのとき北極への再訪をかねて行きたいと思うかもしれない。

次はどこにいこうかな。