宗谷本線 兜沼駅ちかくの鎮魂碑はなんなのか(補記)
しばらくまえ、宗谷本線を通るとき車窓から見える鎮魂碑について調べた。場所を特定し、直接現地へ鎮魂碑を見に行ったところ、それは鉄道工事において殉職した職員の慰霊のために設置されたものであるということがわかった。
亡くなった方の名前はその鎮魂碑によれば仲谷勝男さんという方なのだが、この名前を検索しても前述の私の記事以外一切の情報がない。どういった事故だったのかも碑に書かれていた以上のことがわからなかったため、もう少し調べてみることにした。
事故が起こった時期は碑に書かれているとおりなので簡単にわかる。あとはどこに当たればいいかという点だけだが、とりあえず宗谷地方でもっとも大きな図書館である稚内市立図書館で所蔵されている当時の新聞を閲覧することにした。というより、50年以上前に起こった地方の一事故について一般人が調べる方法など、これ以外には事実上ないと思われる。
稚内市立図書館は非常にきれいで大きな建物で、蔵書数は23万冊、私の地元、葛飾にあるお花茶屋図書館よりも遙かに規模が大きい。古い新聞についても北海道新聞の道北版、日刊宗谷、稚内プレスといったローカルの新聞から全国紙までそろっており、それらはどれも昭和20年代からの原本が閉架書庫にて所蔵されている。調べ物にはぴったりだ。古い地方紙をはじめとした、この手の資料は全くといって良いほど電子化されていない。簡単にネット検索できる全国紙とは勝手が異なるものの、しかし数十年前のニュースを調べるには地域の図書館が最後のよすがだ。昭和時代に発行されていた地方紙の資料は国会図書館にもない。
事故が発生した昭和47年10月5日から一週間程度を含んでいる日刊宗谷、稚内プレス、北海道新聞 道北版のそれぞれを閲覧したいと貸し出しカウンターで伝える。承ってくれた若い男性スタッフは閉架書庫からすごいサイズの「本みたいなもの」を持ってきてくれる。古い新聞とはこのように保存されているのか。知らなかった。
どの新聞も発行から50年以上が経過しており著作権保護期間が終了しているのでそのまま画像を貼る。
文量が多いので記事を見つけるのに時間が掛かってしまったが、事故の第一報が事故翌日(昭和47年10月6日)の日刊宗谷に掲載されていた。流木の取り除き作業中に起こってしまったことだという。職員三人のうち、二人は転覆したボートから泳いで岸までたどり着いたようだ。
翌日掲載された続報では、現地に救助捜索本部を設けて保線区員、豊富消防団など110名が出動し捜索を続けているとある。川床が泥状であるため捜索が難航しているということもわかった。
第一報から7日目の記事で、ついに仲谷さんが遺体で発見されたことがわかる。転覆した現場から900メートル下流で、上半身が砂に埋まっていたところを見つけられたらしい。履いていた胴長を縛っていたため転覆した際に自由がきかず、溺死してしまったという記載もある。
同日の慶弔欄には仲谷さんの名前と年齢、住んでいた場所が掲載されていた。
稚内プレスでは事故自体の記事は見当たらなかったが、慶弔欄については日刊宗谷と同様に仲谷さんの死亡について同日の掲載となっていた。
というわけで仲谷勝男さんの事故についても概ね判明した。鎮魂碑を車窓から目撃したときからずっと気になっていた事故の詳細を知ることができて満足した。自分と同じくらいの年だった彼の無念はいかばかりだろうか。宗谷本線に乗るときは、その尊い犠牲を悼みたいと思う。