北極にいってきた その1
いまから半年ほどまえ、わたしはグリーンランドに行ってきた。これは南極に行ったんだから北極にも行っておこうというくらいの気持ちで行くことにしたというのはすでに過去書いたとおりなのだが、わたしがおとずれたグリーンランドの首都ヌークというのは、じつのところ完全に北極であるかどうかに疑念が残る。南極と異なり陸地の存在しない北極においては、人間が恣意的に引いたラインの内側が北極であるという曖昧な定義しかないのだ。そしてその定義は学問領域ごとに複数存在しており、ヌークは北極であるという定義とそうでない定義の両方が存在している。つまり、わたしは北極にいったかどうかを自信を持って断言することができない。そしてそれが理由でグリーンランドの旅行記は「北極にいってきた」というタイトルにせず「グリーンランドにいってきた」というタイトルにしていた。伏線を回収するタイミングがやってきた。本当に北極に行けばいいのである。
ではどのような定義を持ち出し適用したとしても「北極を歩いた人間」となるためにはどうしたらいいのか。もっとも簡単な答えは「地球最北の都市、ロングイェールビーン(Wikipedia)に行く」ということだろう。世界最北のスーパーだの世界最北の図書館だのがいろいろとある、間違いなく北極圏の町だ。世界最北の町に行ったのだからこれで誰からも文句は言われることはない。
ロングイェールビーンはスヴァールバル諸島の最大の町で、北極点から南南東に位置している。スヴァールバル諸島はその地域全体がこの地からまっすぐ南に進むとぶつかるノルウェーの領土であるため、ノルウェーの首都オスロやトロムソから毎日何本もフライトが飛んでいる。そのため南極に比べれば遙かにアクセスも楽である。東アジアからオスロへの直行便こそないものの、ヨーロッパに就航しているエアラインを使えば二回の乗り継ぎで北極に到着することができる。揺れまくる船に吐きまくる乗客をつめこんで荒れまくる海峡を横切る必要はない。LCCを含む複数の航空会社がヨーロッパ本土から毎日フライトを飛ばしているということもあり、実はグリーンランドよりもさらに気軽にアクセスできる場所でもある。そうと決まれば行くしかない。とりあえずロングイェールビーンへのフライトが飛ぶ、ノルウェー本土にやってきた。
オスロにくるのは数年ぶりだ。ヨーロッパはもうすっかり夏に入っているが、まだ気温17度のこの街ではTシャツだけだと少し肌寒い。
ずっと行きたいと思ったまま機会にめぐまれなかった、去年リニューアルしたばかりの国立美術館を訪れたり地元のビールが飲めるビアバーに行く。相変わらず物価はクレイジーで、この小さなビール一本が1700円する。物価の高い国に滞在するのはたいへんしんどい。ノルウェークローネというなじみのない通貨なのでまだマシだが、もし商品の価格が日本円で表記されていたらなにを買うにも躊躇していたと思う。
オスロに数日滞在したのち、実際に北極に向かうこととする。安いチケットだったのでオスロから直接向かう便ではなく、ノルウェー北部の最大都市トロムソを経由する便を使う。早朝の眠たげなオスロの街をあとにし、空港連絡バスでなにごともなくガルデモエン空港に到着する。パンデミックのさなかに南極へ向かうあのときとはわけがちがう。私の行く手を遮るものはなにもない。
ロングイェールビーンに向かうフライトが出るのはターミナルCと名付けられた、なんというか、リーズナブルな設計の建物だった。3年くらい前にクローズした那覇空港のLCC専用ターミナルみたいな雰囲気がある。
スヴァールバル諸島の法的地位は厳格だが複雑だ。ノルウェーはシェンゲン協定に加盟しているがスヴァールバル諸島は対象地域から除外されている。なので国内の移動であってもシェンゲン圏からの出国とみなされ、パスポートにはそのことを示すノルウェー出国のスタンプが押される。スヴァールバルの入境にも滞在にもビザは不要なので、スヴァールバルにたどりつくことさえできればシェンゲン圏での短期滞在ルール「あらゆる180日間における最長90日」を洗浄することが可能だ。北極で何ヶ月も暮らすよりはシェンゲン域外の国に滞在したほうが安価で楽しいだろうとは思うが……。
出国審査(のようなもの)を受け、搭乗ゲートで待っているひとの数は思いのほか多い。みな北極にいくのだ。カラフルなマウンテンパーカーを着ている人も少なくない。
2時間弱の空の旅。離陸した飛行機の窓からはしばらくのあいだ海だけが見える。しばらくするとビュルネイ島が遠くにみえ、それを過ぎればスヴァールバルの寒々とした景色が眼下に広がる。数十億年に遡る地球最古の陸地だ。Wikipediaによれば6割が氷河、3割が不毛の岩場で1割に植生が見られるらしい。
河のようなものが見える。極地特有の沈まぬ太陽で雪が溶かされているのだろう。
降り立ったロングイェールビーン空港は壁に太陽光パネルの並ぶ現代的で立派な空港だった。真っ黒なターミナルはあまり見たことがない。ここは世界最北の空港でもある。最果ての地にやってきた。まぎれもなく北極である。やっとのことで南極と北極に訪れた人間になった。地球全クリと言ってもいいだろう。
到着客であふれる空港ロビーにはツアー会社のスタッフが会社名を掲げて参加者を出迎えている。そのなかの一人のもつ会社のロゴとM/V HONDIUSという船の名前に目が奪われた。この船は、わたしが南極に行ったときに乗ったクルーズ船だ。南極海が冬季を迎えているあいだ、この船は北極海を泳いでいたのだ。突然訪れた偶然の再会にとてもおどろいた。旧友の活躍をメディアで知ったときのような気持ちになる。
空港を出たところには各都市との距離が記されたサインがある。東京までは6830km。東京からロンドンまでおよそ10000kmの距離であることを考えても、あらゆるヨーロッパの都市よりもかなり近い。地球はやはり丸いのだ。
飛行機の発着時刻に合わせてシャトルバスが運行する。明確なバス停があるわけではなく、町の限られた数の宿泊施設をひとつひとつ巡回する仕組みだ。ツアー参加者以外はレンタカーを借りるか、あるいはこれに乗るほかないため早めに乗り込もう。さもなくばすべての座席が埋まった後にのこる車内の空間に人間をギチギチとつめこんでしばらくのあいだ立ち乗りとなる。町までは固定で片道100クローネ、日本円で1300円ほどだ。この町では現金の使用は非常に嫌がられる。バスの運賃であれクレジットカードでの支払いが当然のように求められる。乗客を待たせないためにもタッチ決済の用意をしていこう。
町に向かうシャトルバスの車窓からは北極の大地と頭に雪をかぶった山々が見える。木々がなく岩が露出していても人間の営みがみえるぶん南極よりも温かくフレンドリーな雰囲気が感じられる。北極には人が住み、それぞれに生活を送り、この町で育つ子供だって何人もいるのだ。